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ニュートップL. ’14年1月号

トップが語る私の修業時代
あのころがあって、いまがある

5回に及ぶ転職の末
自分に適した働き方に出会う

世の中には、初めから完成された人などいない。どんなに優れた経営者も、下積みや修行を経験して成長し、リーダーとしての自己をつくりあげていく。いま、各界で活躍する経営者が、そのころを振り返る。

 

幸か不幸か、私は修業と言えるほどの下積みを経験したことがない。
他人様とのご縁に導かれるようにして、行きつ戻りつたどり着いたのがコミーという会社で、創業前はいくつかの職を転々としていた。
結果的に、そのころが私にとっての修業時代となるのだろうが、遠回りをしたようでもあり、すべてはのちの人生のための布石であったようにも思える。
何かと不器用な私らしい紆余曲折と言えようか。

1967(昭和42)年春、東京・駒込にコミーの前身である看板業「小諸文字宣伝社」を創業したとき、私は27歳だった。
「小諸」は、私が生まれ育った長野県の町の名前である。クルマ2台分の空きガレージが仕事場で、夏になると洞窟のような空間には空気がよどみ、耐えがたい暑熱に悩まされた。当然、トイレなどなく、道を挟んで向かい合う小さな公園の公衆トイレを使わせてもらっていた。

看板業と言っても、その実態は個人営業のペンキ屋で、商店のシャッターに店名などを書かせてもらい、日銭を稼いだ。
料金は、一件あたり3,000円程度だったと思う。
大卒初任給がまだ25,000円くらいの時代で、たいした修練も積まず手軽に始めたことを思うと、実入りはまずまず悪くなかった。

その後、看板製作も手掛けるようになり、独自に開発した回転装置を使った回転看板が「面白い」と評判になった。
さらに、回転装置と凸面ミラーを組み合わせた「回転ミラックス」が小売店舗で防犯ミラーとしてご利用いただくようになると、それ以降、看板からミラーの開発に力点が移っていった。看板業から撤退し、ミラーの専業メーカーに転換したのは、創業から15年後の82年である。
以来、スーパーやコンビニ、ATM・券売機、駅、エレベーター、そして航空機まで、おかげさまで私どものミラーは防犯や安全だけでなく、様々な分野に用途を広げてきた。
恰好のよい表現をするなら、時代の変化に応じて新たなニーズを掘り起こしてきた、と言ってよいのかもしれない。

だが、私の実感としては、その日その日を必死に食いつないできた結果でしかなかった。その点、転職を繰り返していた創業前から事情はたいして変わっていない。

大企業を辞め自動車整備工場へ

1962(昭和37)年、信州大学を卒業した私は、大手ベアリング(軸受)メーカーの日本精工(NSK)に技術者として入社した。
工学部で機械工学を学んだ経験が活かせるのではないかと考えたのだが、間もなく、自分に適性がないことを知るようになった。
たとえば、会議に出席しても、思うように発言できない。上司や同僚とのやり取りでも、うまく意思疎通ができず、悩まされることが少なくなかった。
生来の口下手に加えて、もともと記憶力が決してよいほうではなかったことも災いしたのだろう。
一方、周囲は優秀だった。私の同期入社は75名で、そのうち東京大学卒業の俊英だけでも7、8名はいたと思う。
その他にも錚々たる学歴の持ち主が多く、頭脳明晰なうえ、大企業の経営者の子息など、裕福な家庭に育った人材が揃っていて、私は彼らの姿に劣等感を感じずにはいられなかった。
そのうち、私は周囲の視線におびえる自分に気づいた。「あいつはバカだ」と蔑まされているような気がして、自分という存在が同僚たちの負担になっているのではないかと思えてくる。
「そう思われてはいけない」と気負うが、その気負いが徐々に自分自身を追い詰め、息苦しさは日に日に募った。
人や物の名前が覚えられなければ聞き直せばよく、周囲にどう思われようが、堂々と自分の仕事をこなせばよいと、いまなら思える。
しかし、当時の私はそんなふうに開き直った考え方ができず、自分を追い詰めることしかできなかった。
たとえ小さなミスでも、それをとがめられることによって、私の全人格が否定されるような恐怖を感じていたのかもしれない。いわゆる「宮仕え」ができない性分なのだろう。
結局、競争原理に律せられた会社組織のなかで生き抜くには、あらゆる面で不向きな自分を認めざるを得ず、私は自ら戦線を離脱した。入社から3年半後のことだった。
何の肩書ももたない無所属の人間になると、私は体の隅々にまで行き渡るような解放感を味わった。
このとき、あらためて私は既存の組織で、その一員として働くには不向きな人間であることを実感したように思う。
だが、私にはまだ経済的に自立できるほどの力量はなく、覚悟もなかった。知人の紹介で自動車整備工場に職を得たのは、NSKを辞めて数か月後のことである。
その会社は従業員が150名ほどもいて、社員寮も用意されていた。
入社すると、私も社員寮に入り、六畳の部屋に四人で暮らす生活が始まった。
そのとき、私は初めて塗装の仕事を経験している。だが、一か月も経たないうちに辞めることになるから、技術を身につけるまでには至っていない。
私が再び会社をしくじってしまったのは、些細な理由からだった。もっとも、その会社の社長にとっては許しがたい問題だったかもしれないが。
入社して間もないころ、社長から直々に声を掛けられたことがあった。
「こんど、うちに遊びに来なさい」とおっしゃる。同僚たちの前で言っていただいたこともあり、単なる社交辞令と聞き流すのも失礼かと思って、ある日、社長のご自宅に電話をかけた。
ただ、かけた時間が悪かった。たしか、23時ごろだったと思う。すでに休んでおられたようで、受話器を通して、社長の尋常ではない怒りが伝わってきた。
「きみは飲み屋から電話をかけているのだろう。こんな時間に電話を寄越すとは、何を考えているんだ」
私は、社長の誤解を招いてしまったわが身の世間知らずを後悔したが、もう遅い。翌早朝、社長のご自宅へ謝りに行った。
ところが、社長は日課の散歩に出た直後で、仕方なくいったん引き返し、その後、出社したときに謝るつもりで社長に面会を求めたが、「きみは、もう来なくていい」と、その場でクビにされてしまった。
世の中、思うようにはいかないものだと思った。

「ブラック企業」でセールスの度胸を養う

辞めた理由はどうあれ、短期間で二回も職を失うと、楽天的な私もさすがに気持ちが落ち込んだ。
しかし、「こんどこそ」と意気込んだのは、何かの雑誌を読んでいたとき、ふと目についた百科事典のセールスの求人広告に興味をそそられたからだった。
それによると、給料は完全歩合制で、「月収10万円は落伍者です」と書いてある。
一般的なサラリーマン家庭なら、月に三万円もあれば十分にやっていけた時代で、そんなうまい話があるものかと疑わないではなかったが、どういうわけかやる気になったのは、私がまだNSKに勤めていたころ、百科事典を買った経験があったからかもしれない。
分に過ぎた高価な代物だったが、セールスの洗練された態度や美しい言葉に導かれて、実に気持ちよく買わされてしまったのである。
だが、買う側から売る側へ立場を変えてみると、当然ながら、見える景色も180度違っていた。
語弊はあるかもしれないが、いまふうに言えば「ブラック企業」ということになるだろうか。
とにかく離職率が高いようで、常時、大量に人材が採用され、大量に辞めていく。
おそらく、100人中一人でも使い物になればよいという割り切り方なのだろう。
私たちセールスは、朝から晩まで名簿を繰ってはアポイントを得るために電話をかけた。

ただし、電話の料金は自己負担だったから、成否にかかわりなく、一件あたり10円ずつ消えていく。
そうして二週間も経つと、自動車整備工場で手にした二万円のほとんどが電電公社のもとへと飛んでいき、一件も売れることなく辞めることになった。
世の中、厳しいものだと思ったが、この経験は役にも立った。妙に度胸がついたようで、のちに独立してからも飛び込み営業が苦にならなかったのだ。
さらに、当然と言えば当然なのだが、全面的に信頼できる商品しか扱えないことを実感として学んだ。
自社の商品について、機能や価格に少しでも疑いを抱いたら、結果的にお客様に対して嘘を言うことになる。
心の中に矛盾を感じたまま商売を続けるのは容易ではないと、強く感じたのだった。
立て続けに三回も仕事をしくじって、いよいよ身に染みて感じたのは、転職を繰り返すほど立場が悪くなるということだった。
わずかな貯えを取り崩す毎日で生活が厳しくなるうえ、近しい人たちからさえ信用を失っていく。
「次こそは」と不退転の決意で挑戦したのは、再び自動車整備工場だった。
だが、こんどは典型的な町工場で、見るからに荒んだ工具ばかりのひどい職場であった。
ところが、どうしようもないと思われた職場でさえ得るものはあるのだから、世の中、捨てたものではない。
そこに、まだ二十歳になるかならぬかという年ごろの若者がいた。
彼が意外な手練れで、クルマの側面やトラックの後部に見事な文字を書くのである。
漢字もカタカナも数字も、彼はすらすらと流れるような筆づかいで車体に定着させ、余分なペンキが垂れ落ちることもない。
彼はその腕前で、当時は日当1,000円だったが、文字を書くたびに5,000円も稼いで、まだ日本に数台しかないというバイクを手に入れたと自慢した。
私は、彼に触発されてしまった。
われながら単純な発想だと思ったが、自動車整備工になるより彼のように文字を書く技術を身につけて、看板職人として生計を立てたいと考えるようになった。
とはいえ、私のような素人に文字が書けるのか。書けたとしても、仕事はあるのか。そういう不安がなかったわけではないが、私の背中を押してくれる実例も目にしていた。
というのも、その工場には手練れの彼に遠く及ばない力量の中年男性もいて、その男性ですら決してうまいとは言えない文字を書いて、そこそこに収入を得ていたのである。
その男性には申し訳ないが、彼の書く下手な文字が私に勇気を与えてくれたことは間違いない。そうして、私は四つめの会社も辞めた。私が26歳の年である。
その後、知人に紹介してもらった塗装業で文字を書くコツを教わり、自分でも練習を重ねて技術の習得に努めた。
その過程では、レストランのシャッターにミミズが這ったような文字を書いて肝を冷やすこともあったが、たいていのことなら動じることなく対処できたように思う。
それは、転職を重ねるなかで精神的にも肉体的にも鍛えられたからだろう。
加えて、やはり私個人の裁量で働くことができる職人という自由な立場が、性に合っていたに違いない。
たとえ経済的に報われるものが少なくても、周囲と競い合うことなく自分のペースで仕事ができる。そのことは、私にとって何よりありがたい環境であった。
実際に働いていたころはつらい思いもして、悩み深い日常ではあったものの、私にとってサラリーマン生活は貴重な経験であった。
しかも、転職が多かっただけに、大企業から零細企業までを経験できた。
のちに経営者として様々な決断を迫られた際、そのことが有意義な判断材料の一つとして、どれほど役立ったかわからない。
なかでも、私自身がおおいに悩まされた「組織」について、深く考える手がかりになったように思う。
会社は、健全に安定的な成長を続ける必要がある。一方、社員は有意義で幸福な人生を獲得しなければならない。
そのいずれも犠牲にせず、両立させるのが、創業のころからいまも変わらぬ私の夢である。