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52年前のおはなし(2010.10)

1958年、下駄通学をしていた高校を卒業後、友人の今井君、竹内君と小宮山の3人で上野(長野)から日光まで無茶な自転車旅行をした。
この事実が、時代背景も含めあまりに面白かったので、小学校教師だった今井君は、下記の文章を書き子どもたちに読み聞かせているという。

この旅行では毎日いろんなことを判断する必要があったが、3人という人数は決断をしやすいということがわかった。
2人の意見が違った場合でも、もう一人がどちらかにつけば2対1ということになり、多数決がとれて決定しやすいのである。(小宮山 談)

無賃自転車旅行の思い出 (今井 実氏 記)


皆さんの中には、自分の好きなこととして自転車乗りを挙げる人が結構いるんじゃないでしょうか。
中には、マウンテンバイクなども持っていて、いつかこれでどこかの野山をサイクリングしてみたいなどと夢みている人がいるかもしれませんね。
私も小さい頃から自転車が大好きで、しょっちゅうそこらを乗りまわしていました。それがこうじて十八才の時、大学一年生ですね、友達二人と自転車で旅行をしたことがあります。今日は、その時の思い出話をしたいと思います。

自転車旅行といっても、それは、今の自転車のような五段ギア付きといった格好のいいものではありません。
一緒に行った竹内君は、それでも、その頃としては大変珍しかった二段変速機付きのサイクリング車でしたが、私は、その頃は「自分の自転車」なんてありませんから、父の自転車を借りました。いわゆる普通の自転車です。
小宮山君はどういう自転車かというと、ま、この頃は全くみかけませんがタイヤが太くて後の荷台が大きい運搬用の自転車でした。そうですね、皆さんは時折、五十CC位の原付バイクを見かけることがあるでしょう、ま、あんな感じの自転車だと思ってもらえばいいでしょう。
小宮山君の家は、その頃、八百屋さんをやっていました。
それでお得意さんの家へ大根とかキャベツとか届けるのに使ったんですね。
とっても重たくてイカツイ感じの、そのかわり丈夫な自転車でした。
さて、格好のよくない自転車旅行といったのは、この自転車の形だけのことではありません。
皆さんは「ムチンリョコウ」というのを知っていますか。字に書くと「無賃旅行」と書きます。この字のとおり、お金をかけない旅行ということです。
でも、全然お金をかけないというわけにもいかないので、一人千五百円ずつ持っていきました。
今から五十年近く前の千五百円だから今のお金に直せばどの位でしょうね、ま、仮に十倍の価値があるとして一万五千円位ですね。
これで七泊八日の旅、行き先は日光でした。
さて、千五百円で七泊八日の旅をしてくるわけですから、それなりの準備が必要です。どんな物を持って行ったかというと、先ず米、一人三升計九升、これは結構重たいですよ。
これを大きな箱に入れて「お前は運搬車なんだからみんな持っていけよ。」と小宮山君にみんな押しつけてしまいました。
今考えてみても、小宮山君、よく承知したなと思っています。それから空気入れ用のポンプとパンクの修理道具一式。
これは道中、四、五回パンクしましたからだいぶ役にたったんですね。これがなかったら途中、どうしようもなかったでしょう。
ついでに、パンクの修理は、前もってよく練習していきました。
穴のあいたチューブをタイヤから取出し、穴のあいている場所を探し出し、はったゴムがはげないようによく貼り付けて、また、タイヤの中に押し込む。
これはなかなか簡単なようで要領がいるんですよ。「どうやって習ったか」って。自転車屋さんへ行って教わったんですよ。

さて、それから持ち物としては毛布と大きなビニールシート、なんでこんなものを持って行ったかというと、始めから宿屋に泊まることは当てにしていなかったからです。
だって持っていくお金は千五百円だけ。これでおかずから何から一切がっさい八日間まかなわなければならないんですから。
仮に旅館へ泊ったら一日で全部終わっちゃうもんね。
「え、じゃ、どこに泊まったの?」と思っている人がいると思います。これは、後でだんだんにお話しましょうね。
持ち物の続きとしては、下駄もありました。下駄なんかどうしたんだろうと思うでしょう。勿論、靴も持っていきましたけどね。
道中、長いでしょう。特に上りの坂道などは、下駄の方がペダルに歯がよくかかってこぎやすいだろうと考えたからです。
実際、この下駄は随分役に立ちました。その時、撮った写真には下駄ばきで薄汚れたよれよれのトレパン姿のものがあります。
自分自身は何とも思わなかったけど通り掛かりに見た人は、「何だ、あれは。」と思ったでしょうね。
というわけで、そんなこんなで三人ともリュックサックいっぱいの荷物となりました。
あ、そうそう、荷物の付け加え。飯盒ね、これがないといくらお米を持っていってもご飯を炊けないですから。

いよいよ出発
八月一日。さて、いよいよ出発です。
第一日目は、小諸まで。小宮山君の家が小諸にあって泊めてもらったのです。
小宮山君のお母さんが、よく面倒を見てくれて、ふかふかの布団で快適に眠りました。
二日目。いよいよ日光へ。出発してすぐ、大変な困難に会いました。
道が石ころだらけでおまけに坂道で自転車をこいでも前へ進まない。当時は、まだ舗装してない道が多かった。
結局、行って帰ってくるまでに舗装してあった道は半分にも満たなかったように思っています。
それでも頑張って軽井沢碓氷峠の頂上まで行きました。
そこの谷川の水を飲みながら食べたおにぎりのうまかったこと、今でも忘れられません。
その後はずっと快適だったですね。だってずっと下りの坂道で、おまけに舗装してあったんですからね。
「おーい、楽チンだな、行きも下りで帰りもまた下りになっている道があればいいな。」
なんて冗談を言いながら一気に碓氷峠を下りてしまいました。

その日は、前橋まで行きました。夕方近くになったのでどこか寝るところを探さなくてはなりません。
この旅行は、前もって「何日目は、どこどこまで行って、どこそこに泊まる」なんていう計画は一切ありません。
全て出たとこ勝負、行けるとこまで行って、そこで寝る所を決める、といった具合でした。
そもそも七泊八日なんていうのも初めから決めていたわけじゃない、たまたま行って帰ってきたら七泊八日だっただけなんです。

それで、前橋では、お墓に毛布を敷いて寝ることにしました。あすこは静かでいいと思ったのですね。
ところが、いよいよ横になってみると蚊がブンブンブンブンととんできてうるさくてたまらない。
困ったなあと思案しているときに、ふと、思いついたのが、自分の叔父さん一家が前橋に住んでいるということでした。
それで、この際、叔父さんを頼りにしようということで尋ねて尋ねてようやく叔父さんの家を探りあてて泊めてもらいました。
この日は叔母さんにとてもよく面倒を見てもらいました。
夕飯にカツ丼をご馳走になり、近くのフロ屋さんへ連れていってもらったりして、この日も快適に眠りました。
後で考えてみたら、この叔父さん、五人も子供がいてね、それで部屋が二つ三つの借家、そこへいきなり大の大人三人、合わせて十人。
今でも失礼なことをしたなと冷汗をかいたり。それだけにいやな顔一つせず叔母さんたちのことがありがたく思い出されます。

学校に泊めてもらう

三日目になりました。
この日はずっと平らな道だったけど、特にこれといって特徴のない道をヨイショ々と行けるところまで行け、といった感じで進みました。
栃木県の鹿沼市まで来た時でした。雷がなって夕立が来そうになりました。
「今日はここまで」というわけで、また寝る所を探しました。
折りよく道の右手の方に学校が見えてきましたので、今日はあの学校に泊めてもらおうとお願いに行きました。
その頃は、まだ学校に、宿直といって先生方が順番で学校に泊り留守番をしていたわけですね。
その宿直の先生が快く了解してくださって、この日は学校に泊めてもらいました。
といっても寝る所は、図書館でね、そこの大机をベッド代わりにして持ってきた毛布を初めて使って休みました。
この先生は泊めてくださっただけでなく、日光へ行くならどこそこがいい所だからよく見てくるがいいというようなことを大変詳しく教えてくださいました。何という先生だったかなぁ、メモをしておかなかったことが今でも悔やまれます。

いよいよ日光へ

四日目、いよいよ日光へ到着する日です。
あすこは、日本でも有数の観光地でしょう、近付くにつれて華やいできます。
日光行きの特急電車が走り去っていくし、いろは坂には観光バスが上り下りして観光客が窓から楽しげに外を見ています。
その時は、さすがに「俺もあんなのに乗ってみてえな、ヤバイことをした。」なんて思ったりしました。
でも、引き返すわけにはいきません。元気を出していろは坂を上り、ようやく日光に着きました。

日光での出会い

日光へ着いたとき、先ず真っ先に行ったのが東照宮でした。
なぜそこへ行ったかというと、この自転車旅行に行く前に高校生の時、担任だった先生にこの旅行の計画をお話したんですね。
そうしたら担任の先生が「ああ、それなら東照宮で俺の同級生が宮司をしているから招待状を書いてやる」と言って招待状を書いてくれたんですね。それで、この招待状を持っていけば、きっと泊まる所も考えてくれるだろうと思ったんですね。
ところが行ったところが、その肝心の宮司の方が、今、出張でいないというんですね。
これで目算がすっかり狂ってしまいました。参拝券は、無料で配慮してくれましたが、泊まる所までは無理でした。
それでしかたなく、また学校に泊めてもらおうと近くの学校を訪ねました。
ところが、今度はあっさりと断られました。「当、日光ではそういう観光客を泊める事を許可していない。」というんですね。
もっともなことなんですね。あすこは有数な観光地でしょう。
きっとこういう頼みをする人が、一日に何人もいるんでしょう。
泊めてやっていたら面倒みきれませんからね。
それで、じゃあキャンプ場へでも行ってテントに泊まろうかとしたら、今度は自転車がパンク。
初めてのパンクでした。何度も練習してきたはずなのに直すのにとても時間がかかってしまいました。
そろそろ薄暗くなりはじめるんですね。
ようやくパンクを直してトボトボ歩きはじめたら、まあ、これが何とついていたんでしょうね、この時の旅は全体にとてもよくついていたんだけど、この時は一番ついていました。
自転車を引いてトボトボ歩いていたら、「やあ、あんたも上田高校か、俺もそうだ。」と言う人がいるんですよ。
竹内君のリュックサックには、まだ高校時代の自分の名前が大きく「上田高校 竹内登志夫」と書いてあったんですね。それがこの人の目に入ったわけです。
聞けば、今は大学の土木学部にいて、今、ここへ(日光)泊まりがけで実習に来ているのだというんですね。
「そういうことならちょうどいい。おれ達は、今、建設省の寮に泊っているから、そこに泊まれ。」というわけで、何とその日から三晩もその寮に泊めてもらいました。
おかげで、布団には寝れるし、腰をすえて日光の見学地を存分に見ることが出来るし大助かりでした。
おかげで華厳の滝、東照宮、中禅寺湖、戦場ヶ原などなど、ゆっくり見ることができました。

中禅寺湖で出来事

ひとつ、ここでこわかったのは、中禅寺湖でボートに乗ったときでした。
湖の真ん中あたりにきた時、にわかに霧がまいてきたのです。
その時、はじめて知ったのですが、霧にまかれると右も左も何もわからないですね。見えるのは、十米四方の湖面だけ。
中禅寺湖には、華厳の滝があるでしょう。その滝口の方でも行ったら大変なことです。さあ、あわてましたね。
その時、三人の誰からともなく、ふと思いついたのです。
中禅寺湖は結構大きい湖だけど、それでも遠くからかすかに車の走る音や警笛の鳴る音が聞こえてきたのです。
「おい、あれを頼りに音のする方へこいでいけば岸に着くことができるんじゃないか」というわけで、さあ、それからこぎましたね、こいでこいでこぎまくって無事に岸に着くことができました。
でも、あの時は、冷汗をかきましたね。
ボート屋さんにボートを返すとき、「心配になって探しに行こうとしていたところだ。」と言われて改めて自分たちが無知なことをしたものだと思いました。
ところで、あのお金が底をついてきました。
三日も寮に泊めてもらってごやっかいになっていたのですが、いつまでもお世話になるわけにもいかないので、そこをおいとましました。
でも、ポケットにはもう小銭しかありません。とても旅館には泊まれません。
学校には、さっきお話したとおり泊めてはもらえません。そこで日光最後の日は、キャンプ場へ行ってテントに泊まりました。
それもお金がないので二人用のテントに三人、押しくらをするようにもぐりこみました。
まだ夕方七時頃でうす明るいのですが、もう一週間ちかくろくなものを食べないできたので、腹がへって動く気力もありません。
そこで三人、早々とテントにもぐりこんで退屈まぎれに「しりとり」などをして、そのうちにすっかり眠ってしまいました。

トラック運転手さんとの出会い

日光を十分見たし、それにお金も残りわずかで心細くなってきたので、翌朝は、朝四時頃起きて、一目散、スタコラサッサ、一気に家まで帰ろうということになりました。
同じ道を帰るのはつまらないので、帰りは足尾銅山のある方をまわっていこうということになりました。
ここには、細尾峠という上り下りの長い峠があります。ところが、雨が降ってきました。
一応雨がっぱを持っていったのですが、峠の上りをカッパを着て自転車で登るわけですから汗が体中にへばりついて仕方がありません。
それにこれまで一週間の疲れが出てきたのでしょう。おまけに道は、舗装もしてありません。
三人とも自転車をこいで登る気力もなく、仕方なく自転車を引いてトボトボと峠を登っていきました。
ところがどうでしょう、ここでも声をかけてくれた人がいました。トラックの運転手さんでした。
「おい、どこへ行くのだ」と尋ねるので、これこれしかじかで足尾銅山の方へ行こうと思っている、と返事をしますと、「それじゃ俺もそっちへ行くからついでに乗っていけ」というわけで、自転車ごとトラックに乗せてもらい、おかげで一気に峠を越えることができました。
時計をみたら三~四十分ほどかかっていましたから、あれを自転車をひいて越えていたらどういうことになったろうかと、しみじみトラックの運転手さんの親切と有難さを思いました。

最終日はついに野宿!

峠を越えれば下りですからね、また、元気が出てきました。さあそれからはこいでこいでこぎまくりましたね。
何しろ今日のうちに家に帰ろうと思っていたのですから。無理な話ですね。来る時に三日もかかったところを一日で帰れるはずがない。
それで途中であるお寺に泊めてもらえないかとお願しました。あっさり断られましたね。
それでは行けるところまで行こうというわけで、また、こいでこいでこぎまくりました。夜の十時、とうとう高崎まで来ることができました。
今日は駅のベンチに横になろうとしました。ところが駅は夜行の旅行のお客さんでベンチは満員、ダメでした。
そこで最終日はついに野宿ということになりました。野宿って知っていますね。屋根も何もない、ただの野っ原に寝ることです。
河原にちょうどよい芝地がありましたので、そこに毛布を敷きました。
三人とも芯から疲れていたせいでしょう、そこに横になると同時に泥をかいたように眠りこけ、翌朝の六時まで目が覚めませんでした。
何しろこの日は、朝四時から夜十時まで自転車に乗り通しでしたからね。
翌朝、目を覚ましたところ河原の芝地だと思っていたところが、どうやら人の家の庭だったんですね。
これはまずいとあわてて毛布をたたみ、我が家へと向かいました。
さあ、ところが最後の難関、行く時に「帰りも下りの坂があればいいな」などと冗談をとばして一気に下りた碓氷峠が待ち構えています。
でも、ここは、もう家が近づいてきたせいか、思ったより元気よく上りきってしまいました。

出会った人たちに感謝

こうして七泊八日の自転車旅行は無事に終えることができました。旅を終えた直後、強く感じたことがあります。
それは、帰宅後三日四日、おけつが痛かったこと。何しろ八日間も自転車のサドルにこすられていましたからね。
それともう一つ、やはり三日四日、何を食べてもうまかった。毎日、おかずといえばうめぼしやタラの干物でしたからね。

それから、これは三日四日だけではなく、その後ずっと、今も思っていること。人の親切の有り難さです。
小宮山君のお母さん、親戚の叔父叔母従兄たち、鹿沼の宿直の先生、バッタリ会った先輩、荷台に乗せてくれたトラックの運転手さん、今でも忘れることができません。この旅行のことが今でも忘れられないのは、なぜだろう、と思うことがあります。
それは、多分、出来上がったコースにただのっかるだけの旅行ではなく、自分で考え自分で作り上げた旅行であったためだろうと思っています。
それだからこそ、この旅行に手を貸してくださった方々のやさしさ、親切に触れることが出来、またその時々の成功したうれしさ、楽しさが大きかったからだろうと思っています。
みなさんも、これから大きくなって、もしこんな旅行のできるチャンスがあったら是非、挑戦してみてください。


この文章は私の箸の記事が新聞に出たので、音信不通だった友人が懐かしくなって送って来てくれたものです。

<自転車旅行の小宮山の後日談>
八百屋の配達をしていたとき片手で商品、片手でブレーキを持っていた。下り坂のところでブレーキが利かなくなり人とぶつかってしまった。幸い怪我はなかった。