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新社屋建築物語<連載No.1>

1. 何故コミーは生れ育ったか?… 創業時を考えながら、これからのコミーを育てられないか

創業時のことに触れておきたい。新しい恵まれた環境に慣れると経営陣や従業員たちが当然のことのように感じ、そこに甘んじてしまい、原点を忘れ、会社がつまずいてしまうという例が少なくないからである。これから迎え入れる従業員も含め、我が社の原点はどこにあるのか。創業当時のことを忘れたくない…展示室に創業した当時の建物の写真を置くことにした。

●貧乏でも借金なし、ライバルなし、ストレスなし。 そして、「出会い」や「創る」がいかに楽しいかを体験…。 「ないない尽くし」の「駒込時代」に看板業をしながら 鏡屋も始めた

「駒込時代」昭和43~44年頃。 車2台分の車庫のあと。夏は猛暑。トイレなし
「駒込時代」昭和48~49年頃。回転看板(右上)が縁で、アクリル凸面ミラーを置いていく人あり。

1967年創業時の社名は「小諸文字宣伝社」で、業務は看板業である。その後「コミー工芸」「コミー工芸株式会社」と変わり、現在の社名となったのは1999年である。 東京駒込での創業時、社屋は車2台用の車庫であった。屋根はトタン張りで後背部に向かって低く傾斜しており、もちろん冷暖房はない。冬はストーブで何とか寒さを凌いでいたが、夏の暑さはすさまじかった。しかもトイレもなく、建物の前にあった公園の公衆トイレで用を足していた。設備面からみれば、この社屋は「ないない尽くし」。しかし、建物はボロでも“創る喜び” “出会いの喜び”があった。これがコミーの原点である。 2~3人の会社で、売上げも他社と比べると最低だったと思う。もともと給料や生活費の支出が最低で済んだ。当時、小遣いが1日100円しかないあわれな「100円亭主」が話題になっていたが、私は「10円亭主」と自慢した。夕刊フジが出た時、10円で、それを買うためだけにお金を使っていたからである。 車が必要になり、上野の中古店で軽自動車を4万円で買った。日本経済新聞の主催「JAPAN SHOP」がすごい反響の展示会だと聞いたので、思い切って出展した。出展料だけで、当時の1カ月の売上げの20万円位であった。 もともと、看板屋なので、運搬や装飾はすべて自前であった。第一回目は「コミックス」という、動いたり止まったりした商品を売り出したが、完全に失敗した。 お客さんから見たら、役に立たない商品だったのである。しかし、この展示会を機に、売ってくれるお客さんと使ってくれるお客さんがあり、お客さんの立場から考えるマーケティングを学ぶのが、面白いと感じるようになった。 ’72年には「回転装置」がついた看板を開発し、ディスプレイ業にも進出する。株式会社となったのは1973年。しばらく車庫で営業を続けた。 ’77年に「回転ミラックス」を晴海で開かれた「JAPAN SHOP」に出品し、それをきっかけにスーパーマーケットの白菊さんから30個もの注文をいただいた。偶然にも白菊さんのお店はコミーの近くにあった。白菊さんに場所を説明すると、当社の社屋は通りに面していたにもかかわらず「はて、あったかな?」と、気付かなかったようだ。後日、白菊さんをお訪ねし、回転ミラックスが万引防止に役立つことを初めて知った。その後も白菊さんからは多くの貴重なアドバイスをいただいている。

●車庫を立ち退き、雑居ビルに移る。 業務用ミラーに参入した「巣鴨時代」

1982年頃、東京巣鴨に移転した。家主が新たなビルを建てるので追い出されたからである。車庫は居住権はないが、立ち退き料として今まで払った家賃の総額以上の金額をもらった。巣鴨で借り受けたのは「内田ビル」の1階の一部で12坪ほどであった。この場所は今、スナックとなっている。 やがてここも手狭となったため、「天野ビル」に移った。その広さは24坪あまり。そして営業部門(マーケ)は「宗像ビル」に移り、さらに「扇谷第2ビル」に移転した。工場と営業部門に分かれ、2拠点であった。 この「巣鴨時代」の’86~’89年にかけて、「オーバルミラー」と「FFミラー」の開発と製造・販売に乗り出した。当時の従業員数はパートも入れて7~8名くらいだった。

●バブルの真っ只中でオンボロ社屋(土地付)を購入。 狭い場所で「多品種・少量・短納期」を目指した川口の 「青木時代」

1990年に埼玉県川口市上青木に川口工場(青木)を購入し、拠点を川口に移した。 これは狭くなったこともあったが、人事採用コンサルタントのアドバイスもあった。「自社の土地を持ちなさい。また、お金をかけたパフォーマンスを展開しなさい」と言う。彼のアドバイスは、バブル真っ只中の採用活動方法であった。そんなこともあり、東京の隣りの川口に現在の4~5倍の価格で印刷工場跡を購入した。しかし、購入時の建物は雨漏りするほどオンボロで、それを修理しながら、生産を始めた。 この「青木時代」は、狭い所で多種多様なミラーを次々に開発し、製造・販売することになった。「多品種・少量・短納期」に寝ても覚めてもチャレンジしていた時代である。その後、近くに倉庫(第二倉庫)を借りたり、営業部門も西川口駅前のビルに移した。